犬森さん。

ポカミスだな。
課長の顔がこれでもか、というぐらい歪んでいる。
何か言いたいことはあるかね。と、課長は苦々しく言った。
あるわけがない。何の言い訳も説明もしようがないミスだった。すみませんでした。僕は頭垂れて手元の書類に目を落とした。



机に肘かけながら大きく溜め息を吐いていると、対面に座っている先輩である犬森さんが声をかけてきた。
「やっちまったことは気にすんな。同じ事を繰り返さないようにだけ気にすればいいんだって」
「まあ、そうなんですけど。普段の僕なら絶対在り得ないミスなんですよ」
「まあ、人間のやることに絶対なんてことはないんだけどな。特にポカミスとかケアレスミスなんつうのはさ、アレだ」犬森さんは言葉を切り、僕に指を向けてきた。「チン毛みたいなもんだよ」
「チ、チン毛ですか」「そうだよ。彼女が初めて家に遊びに来るとするだろ? 先ず部屋を片付けるだろ?忘れちゃならんのが、エロ関係を隠す事とトイレ掃除だろ? カーペットにこびりついたお菓子の食べカスとチン毛をローラーで根こそぎるだろ? でもな、チン毛ってのは床だけじゃなくて机の上だとか、本の間に栞みたいになってたりするだろ? どんなに注意を払って掃除をしてもチン毛は消えないんだよ。それとポカミスとかケアレスミスは同じなんだよ。な?」
「そ、そうかもしれないですねえ」








そんな訳ねえよ。

ドロップ

十四日ぶりの休日の目覚めはフライングニードロップからだった。
悶絶し、呻き声すらでないでいる僕に二撃目のドロップキックが背中に炸裂した。
一体、何だっていうんだ。襲撃犯が何かを言っている。その声を僕は知っている。いや、最初から分かっている事だった。こんな事をしてくるヤツは少なくとも僕の周りでは、たった一人しか居ない。
「起きなさいよ。いつまで寝てるつもり?」
痛みで奪われた感覚が戻ってきた。顔を上げた刹那、ボディへのローキックが空気を裂きながら飛んでくるのを僕は見逃さなかった。そして、その足を眼前で掴み、僕は不敵に笑ってみせた。
「おはよー」
と、ユイは微笑した。が、獲物を狙う狩人の眼光が禍々しく輝いている。「甘い!」
そして僕の視界に飛び込んできたのは、制服のスカートから伸びた白い足とレースがあしらわれた白いパンツだった。

お。

ガツンと、右即頭部に衝撃があった。激しく脳を揺さぶられ、僕はぐるりと白目を向き昏倒した。
薄れゆく意識の中で「また寝るのかよ」と、言う声が聞こえた。



数時間後。
僕は首にアイスノンを宛がいながら、うなだれていた。
視線をあげると上機嫌にTVを見てユイが笑っていた。
「ところで」
「ん? 」ユイが僕を見る。「その制服はなんなの?」
ユイは濃紺のブレザーと膝上丈のスカートを着ていた。このへんでは有名な名門進学高校の制服だった。
ユイが怪訝な顔で僕を見る。「打ち所悪かった? 一般的に学生が制服を着るのは当たり前だと思うんだけど」
「そうだろうね」と、僕が憮然とした面持ちで言うとユイは立ち上がり可愛い? と、クルリと廻ってみせた。
しゃくなことに可愛かった。
「聞いているのはそういう事じゃなくて何で制服着て、此処に居るのかってことなんだけど」
ユイはおもむろに僕の頬をつねあげる。「全くどの口がそういう事、言うかな」「んががが」
「二週間だ」「あが?」
「耳が遠くなったのか? 十四日だ」
ユイが手を離す。頬がヒリヒリと痛む。ああ、と僕が思い当たり、それからニヤニヤしてみせた。なんだ、寂しかったのかよ。ヒュン。唸りをあげて、廻し蹴りが僕の眼前を素通りしてゆく。全く見えなかった。
「何よ、気持ち悪い顔して」下手な事を言うと殺すよ。僕には、そう聞こえた。
「でも、仕事がデスマってるから終わるまでは会えないって言わなかったかな?」
「言ったよ。聞いたよ。分かったとも言いましたよ」
「じゃあ、何で怒ってるのさ。話が全然、見えないんだけど」
「社会人になると感情が麻痺するって話を聞くけど本当だね」ユイは心底、呆れたように言った。「例えるなら、駅前のロゼリア」「よく分からないんだが、どうしてロゼリアがでてくるんだろう」
ロゼリアって何?」「ロゼリアはよく待ち合わせに使う喫茶店です」「正確には待ち合わせに使う、ケーキの美味しい喫茶店です」そういえば、ロゼリアのレアチーズケーキが美味しいからと、ユイにねだられてホールで買わされた事もあった。
「甘いモノは天敵なんだ。でも、ロゼリアに行くと必ずケーキを食べてしまう」まるで世界の終わりとでもいうみたいにユイは悲愴な面持ちをした。僕は吹きそうになるのをこらえる。「行かなきゃいいんだ」
「まさにその通り。これ以上の答えはない」ユイはもっともらしく首肯し「だから、社会人は冷血漢だと言うんだ。感情をコントロール出来るぐらいなら、大事な学業をサボってキミを起こしには来ない」と、溜め息まじりに言った。僕は悲しくなってきた。何で、高校生に溜め息吐かれなくてはならんのだろうか。
「ところで」ユイが隣に座り、身体を押し付けながら僕の目を覗き込んでくる。
「イタガキ アヤコって誰?」
もし、僕がコーヒーを飲んでいたなら確実に噴出していたし、リンゴの皮むきをしていたなら指を飛ばしていただろう。誤魔化しようも無い程、僕は動揺を隠せなかった。
「ふうん」僕の反応を見て、ユイはすくっと立ち上がった。殺られる!!! 僕は反射的に顔を腕で覆った。
しかし、蹂躙されるべき攻撃はやってこなかった。それどころか恐る恐る上げた視界に飛び込んできたのは蹴りでも無く、扉を開け、立ち去ろうとするユイの姿だった。

僕は慌ててパジャマの上に脱ぎ散らかしたコートを引っ掛け、ユイを追いかける。

夜の海

漆黒の空を見上げ、俺は大きく伸びをした。
約束の時は数分後に迫っているがユウコの姿はまだ見えない。
まあ、いつもの事だ。と、さしたる感情の揺れもなく俺は煙草に火をつける。ユウコと会うのは今回で三回目になるが、どれもまともに来た試しは無かった。約束の時間を数分回った頃、携帯が震えた。



唾液が糸引くような、唇を重ねた後、俺とユウコは車を降りた。
目と鼻の先には夜をも飲み込んだ漆黒の海が広がっている。ユウコは海と陸を仕切るフェンスに肘かけ、しばし無言で夜の海を見ていた。海が見たいと言ったのはユウコだった。享楽的に今を生きているようなユウコにも抱えている重荷があるのかもしれない。あるいは、これから始まる時間への憂いなのかもしれない。
しかし、俺は何も聞かない。何も言わない。俺はユウコにとって需要を満たす存在。それ以下でもそれ以上でもない。
それに好奇心は猫を殺すとも言うだろう? すでにキャストは振られている。後はシナリオ通りに進行せしめるのみだ。沈黙を破ったのはユウコだった。グロスのきいた厚めの唇から言葉が紡がれる。
「海ってさ」
俺は海からユウコに視線を移した。
「海ってさ、特に夜の海。何だか吸い込まれそうな感じしない? なんか恐いよね」
ユウコはただ真っ直ぐに海を見ていた。確かに夜の海は恐い。誘い、誘われている気がしないでもない。
俺は何も言わず首肯した。ユウコは真っ直ぐに海を見たままだった。

池の鎖


池があった。僕が生まれる前よりも、聞けば親父が生まれた時から街にあった池。
そんなに大きな池ではない。ぐるりと徒歩で廻って十と三分。その池が都市開発の波に呑まれ、住宅地になることになった。約、一年少々で工事が終わり、拓けた土地にはあっという間に家が建った。交通の利便さと長閑さが受けたのだろう、完売は早かった。

子供時代によく遊んだ池が無くなった。でも、感傷に浸る程でもない事だった。
親父から、Uさん一家がそこに住んでいると聞くまでは。Uさんの息子は池で死んだ。当時、六歳ぐらいだったろうか。そこにUさんは移り住んだ。


過去は風化するものだ。そう思っていた。
けれど、過去から動けなくなることだってあるんだ。

息子

今日は子供の入学式でした。
家から歩くこと二十分。なに、この苦行。めっさ疲れたんですけど。それで二クラスしかない過疎っぷり。今はこれが普通みたいですけどね。俺が小学生の時は六クラスあったけどな。中学の時は十二クラスとかだったし。
そういうことを考えると今の子供達は狭いコミニュティだよなぁ。閉塞感があるというか、何か失敗したら逃げ場も無いよね。
頑張れ、息子。俺なんかより、ずっとイケてるぞ。べっぴんさんに、きっと惚れられるぞ。

book「Story  Seller2」

七人の作家によるアンソロジー
前回と違うのは道尾秀介氏が外れ、沢木耕太郎氏が参加しております。とりたてて目新しい発見は今回はありませんでした。個人的には伊坂先生と有川先生ぐらいかな。
どうでもいい蛇足ですが、伊坂先生の合コンの話に出てくる、おしぼりの件は私はライターを使ってました。