良薬。

黒いスーツに袖を通し、姿見に全身を映す。
普段、着慣れていないだけに滑稽なように思えたが、しゃんとして見えないこともなかった。それは黒のスーツを着るという意味合いが、そう感じさせるのかもしれない。時計を見ると時刻は午後七時を指していた。そろそろ出るかと靴を履きかけた時、コートの内ポケットから、レットイットビーが流れた。
着信表示を見る。
アヤコ。以前に彼女だった女。
一瞬だけ、躊躇する。それは過去から来る気持ちの迷い。しかし、一瞬だけの事で俺はファイブコールで通話ボタンを押す。用件は分かっている。俺は葬儀会場の場所と時間を説明する。
「シュンは何時頃に行くの?」
「俺は今から行く。受付を頼まれてるんだって」久々に俺の名前を呼ぶ、アヤコの声に懐かしさを感じた。「じゃあ、絶対に会うだろうから先に言っとく。私はアベと行くつもりだから。まだアベには話してないから、どうなるか分からないけどね」
当然と言えば当然の事実に俺は少しだけ戸惑った。アベが来るのは何ら不思議な話ではない。アヤコの現彼氏であり、死んだ友人の仲間だった男なのだ。
「もしもーし」と、アヤコの声を聞きながら俺は努めて平静に聞こえる様に言った。
「聞こえてるよ。まだ付き合ってたことに驚いただけだ」
「ああ。今年で三年になるから長いっていえば長いのかな」そう言ってから突然、アヤコが可笑しそうに笑った。
「昔のことを思い出しちゃった。シュンとは一ヶ月とも持たなかったのにね」過去を笑って語れるのは、きっとアヤコが幸せだからだろう。三年前に断ち切ったはずの感情が胸の内でむくりと鎌首をもたげる。
「正直、言うと俺はアベが好きじゃない。もっと言うと、アベのどこが良くてアヤコが付き合ってるのか分からない」
今度はアヤコが沈黙する番だった。昔からそうだった。アヤコは怒ると黙りこんでしまう。アベはこの事を知っているだろうか? 長い溜め息が受話器の向こうで聞こえた。
「ほんと、変わってないね。昔にも言ったと思うけど、そうやって人を上辺だけで判断してると損なだけだよ」アヤコの口調からは、やや落胆の響きが感じられた。そして、過去からの穿ちは痛みを伴い、俺の胸を深く抉った。「上辺だけでなんか見てない」
「じゃあ聞くけど、シュンはアベの何を知っているの? 確かに誤解を生みやすい人であるのは否定はしない。けど、顔見知り程度の関係だったシュンには言われたくない」確かに俺はアベの事は何も知らない。興味も無かった。
「ねえ。シュンが思う程、アベはそんなに嫌な奴なんかじゃないよ」
「アヤコから見てアベはどんな奴に見えるんだろう」
「そうだな。例えて言うなら良薬かな」アヤコは少し笑って「良薬、口に苦しって言うでしょ」と、言った。